函館の新聞に報道されたセミョーン・スミルニーツキイとその息子のこと
ネフスキイについで小樽高等商業学校のロシア語教師となったのが、セミョーン・ニコラエヴィチ・スミルニーツキイであることは周知のとおりである。彼には小樽で10年ほど一緒に暮らしていた息子がいたらしいのだが、それはよく知られた話なのであろうか。私がその息子のことを知ったのは、1931年4月、函館でのある出来事によってである。
当時、函館で刊行されていた「函館新聞」、「函館毎日新聞」、「函館日日新聞」のうち、前二紙がこの出来事を取り上げている。とくに「函館新聞」の取材は丹念で、本稿の執筆も、そのお陰でできたようなものである。
函館新聞社の社長は長谷川淑夫というが、長谷川濬(大阪外語露語科卒、満映)や長谷川四郎(作家)の父といったほうがわかりやすいだろう。函館時代の濬と四郎はロシア語にかぶれていて、長谷川家にはしょっちゅうロシア人が来ていたし、ロシア人旧教徒が住んでいた団助沢から届く黒パンを食べていたという(長女長谷川玉江氏の談)。だからというわけではないが、この新聞には「ロシア」関係の記事がことのほか多いような気がするのである。
それはさておき、新聞に掲載されたスミルニーツキイ父子の記事(「函館新聞」1931年4月5日,6日,17日付けと「函館毎日新聞」4月5日付け)のあらましを述べてみよう。
5日付けの「函館新聞」の記事では、まずセミョーン・ニコラエヴィチの人となりが簡単にふれられていて、帝政時代の伯爵で、革命後日本に亡命し、小樽高等商業学校に招聘されたという紹介がされている。檜山真一氏の調査によれば、彼は1879年9月1日の生まれであるから(「異郷」4号)、この時は51歳のはずだが、新聞ではどういうわけか、59歳となっている。そして「数年前に愛妻と別れてから生活は憂鬱に封されていた...」と話が続いたあと、「三日前に突如来函、五島軒ホ テルの一室に宿を求めた」と報じられている。来函の理由は、19歳になる一人息子が3年前に小樽を去り故国の親戚の家庭に身を寄せ、過激な労働に従事していたのだが、今度ソ連国営漁業会社に雇われたため、カムチャツカに行くことになり、その船が函館に寄港するからであった。
カムチャツカで働く我が子の身を案じた父は、防寒服や食糧品を携え函館にやってきたのである。この記事を書いた記者は、帝政時代ならば何不自由なかったろうに、パンを求め怒濤渦巻くカムチャツカに一漁夫として流転の生活を求めねばならぬのは、あまりに悲惨だと結んでいる。
同日付けの「函館毎日新聞」も来函の理由をほぼ同様に述べているが、スミルニーツキイに「壽美留爾月」という漢字をあて、また「函館新聞」では不明だった息子の名前が「アレキサンドルフルゲニー」と書かれている。「函館毎日新聞」が報道したのは、この記事1回だけであった。
「函館新聞」のほうは、翌6日には、「露国人ではない 私は日本人です 出稼ぎする令息を案じつつ流転の老伯爵語る」という、やや芝居がかった見出しと父子の写真付きの記事が掲載された。
記者はスミルニーツキイとは旧知の間柄で、6年ぶりの再会だったという。五島軒ホテルの一室を訪れ、ドアをノックすると、流暢な日本語で「お入りください」との声があり、中に入ると、小樽での教え子が4、5人いて、話に花を咲かせていた。
そしていよいよ息子の話に移るのだが、彼はソ連国営漁業会社「アコ」の日本語通訳に雇われて浦汐〔ウラジオストク〕で働いていたという。ところが2月に手紙があり、今年はカムチャツカ漁場に出漁するというので、父は久し振りで会えると、息子の好物を持って来ていたのであった。なお、記事によれば、息子も13年前に小樽に移住して…とあるのだが、恐らくスミルニーツキイが小樽高等商業学校に赴任した1922年からということなのであろう。息子は北海商業学校の2年生まで学業を修め、親子で日本のことを熱心に研究していたのだそうである。したがって、彼らにとって日本は生まれ故郷のように思われ、現在のソヴィエトのことは全く判らないのだということが述べられている。
「函館新聞」の最後の記事は、17日付けである。見出しは「老公爵の淋しき思ひ待ちわびた子は来ず スミルニツキ氏帰る」。記事の概要は次の通りである。
4月16日に、浦汐から入港したソ連国営漁業会社の傭船「呉淞丸」に出向き、息子が降りてくるのを待っていたスミルニーツキイだったが、その顔は血の気を失っていた。狂ったように船長に尋ねると「貴君の息はアコ会社を既に退職した」と言い聞かされ、彼は元気なくホテルに帰るとベットに横臥してしまった。記者には今後何年後に息子に会えるかわからないと語り、その日午後11時の夜行で戻っていった。
以上が函館で起きたスミルニーツキイ父子に関わる出来事の全容である。別の資料でもう少し補足をしておこう。資料というのは昭和19年5月の「外事月報」で、この年スミルニーツキイが「造言飛語並無線電信法違反」で検挙されたため、ここに掲載されるはめになったのである。そこにある略歴によれば、彼はモスクワの陸軍幼年学校を卒業し二等陸軍主計に昇進、革命後は奉天を経て1919年に日本に亡命したとなっている。すでに檜山氏が報告されているとおりである。
その先はそのまま引用しよう。「亡命当時はスターリン政権に対し反感を有し居りたつが、其後漸次変移し、殊に小樽にソ連領事館設置せらるるや他に先んじて之に接近し以てソ連館員等の意を迎へんことに努め大正十五年[1926]同領事館を介し長男にソ連国籍を取得せしめ昭和三年四月当時浦潮斯徳の実母の許に送還せる事実あり」
この資料からすれば、亡命者とはいえ、スミルニーツキイはかなりソ連よりだったとみなされており、少なくとも息子には積極的にソ連国籍を取らせていたことが窺われる。愛する息子を帰国させたということは、やはりソ連という国を信用していたからといえるのではないだろうか。
ところで、2月にわざわざ手紙をよこした息子が、なぜ4月には退職するようなことになったのかが気になるところである。新聞では「退職した」とのことばにスミルニーツキは黙々とタラップを降りたというだけで、その理由までは書かれていない。
もし、病気等の個人的事情ならば話は別だが、本人の意志でなかったとしたら、「アコ」会社の都合、あるいは国の都合ということも考えられる。ここからは、私の推測であるが、考えられる理由を述べておきたい。その一つは、日ソの漁業関係を巡る事情が変化していたことである。
そもそも「アコ」会社が日本語通訳を必要としたのは、日本で物資の調達をしていたこと、ソ連側の漁場でも労働者として、日本人を雇っていたことが大きな要因だと思われる。ソ連の国営企業が雇用した国籍別労働者数の比率をみると、1928年では、ロシア人が48パーセント(1418人)なのに対し日本人が52パーセント(1599人)である。ところが、1931年、急激に日本人の割合が低下し、9パーセントとなった。とはいっても、日本人労働者の実数はまだ1055人もいたのであるが、漁場を拡大してロシア人労働者を9726人にまで増加させたため、比率が低下したということである。もっとも、1932年には、560人、翌1933年には0人と、日本人労働者は解雇されていった(『函館市史』通説編第2巻)。
このような事情から日本語通訳「アレキサンドルフルゲニー」が必要なくなり、解雇されたと考えるのが妥当なところかも知れない。
しかし、もう一つ、仮に「国家」の都合だったとしたらという、さらに推測を重ねるような話だが、それも念のために記しておきたい。ソ連国籍を持っているとはいえ、亡命して日本に住む父親を持ち、本人自身も十数年を日本で暮らした「日本通」である。それだけでスパイの疑いを持たれる理由は十分ではなかったろうか。
極東の漁場は日ソ両国人が一緒に働く、まさに最前線であった。それだけに両国とも、そこに「スパイ活動」が発生する可能性あり、とみたのは自然のなりゆきである。このころ函館の新聞には「赤化漁夫」の文字が踊る一方で、「帰国したロシア人漁業家が行方不明」といった記事も散見されるようになる。
1930年のことだが、レフチェンコという「ダリルイボ・プロドクト」(ソ連極東漁業組合)の漁場支配人が、カムチャツカの漁場から引き揚げる途中、船が寄港した函館で亡命を決行した。ソヴィエトの官憲が旧帝政時代からの漁業関係者を逮捕投獄し始めたので、自分もその運命にあるとみて、脱出を計ったものであった(外交史料館所蔵資料、外秘第3703号)。
1930年代の後半には粛清の嵐が吹き荒れるが、受難の時代は、すぐそこにまで迫ってきていた。上述の資料にみるように、とくに極東の漁業関係者に手が伸びるのは早かったようである。
弱冠19歳の「アレキサンドルフルゲニー」が退職した理由は何だったのか、父スミルニーツキイとはその後会うことができたのか、今のところ私にはこの疑問を解くすべがない。